昭和・・リターンズ(2)

「一八!これが道楽ってもんだ!」

若旦那はかわらけ(瓦を素焼きにした皿)の変わりに小判を的に向かって投げました。※落語「愛宕山」


世間はかつてない底が見えない不況に落ち込んでいます。
今朝の経済新聞だと、景気の底は2年後だそうです。
と言うことは今が不況・不況と言っていますが、今後2年はもっと悪くなっていく状態だそうです。

もちろん他人事ではありません。
イベントを生業とする自社は、その影響は見通しがつかない状況です。

でも思い出してください。

僕たちのあの昭和は、もっと大変で、もっと楽しかった・・。


かぎっ子と言う言葉がありました。
今では普通かもしれませんが、当時共働きの家庭は少なかったのです。

アパートに住んでいた僕はかぎっ子でした。

ランドセルにアパートの鍵をぶら下げてました。
当時、こずかいを20円位毎日貰っていました。

ランドセルを家に放り投げる頃、カッチーン・カッチーンと言う拍子木の音。
そうです、紙芝居屋が来る時間だったのです。

「黄金バット」や「少年探偵団」明智小五郎や怪人二十面相が紙芝居で活躍していました。
ソースせんべいや型抜きなど20円で心躍る世界がありました。
紙芝居を見た後は、必ず三角ベース野球をしました。
憧れは長島や王選手でした。
と言ってもグローブを持っているのは少なくバットも棒でした。
でも必ず8人位の悪がきが集まって草野球をしていました。

当時は草野球をする空き地がそこ、ここにありました。
草野球をしていると、たいてい上級生に最後は空き地を取られました。

草野球が終わると、今度は沼に行ってザリガニ取りになりました。
糸を1本持っていれば、ザリガニは取れました。
最初に一匹のザリガニを素手で捕まえて、残酷ですけれど尻尾の皮をむき、それに糸を縛りつけ、竹や棒の先に結び沼に沈めるのです。
面白いようにザリガニが釣れました。

暗くなるまで遊んでいました。
毎日が長かったのです。

喧嘩もよくしました。
たいてい砂場でした。
複数の喧嘩でした。
役割は、2等兵・軍曹・大佐みたいに格付けがあり、ひ弱な僕は2等兵でした。
必ず負けて泣きました。
でも軍曹や大佐が強くて勝利したことも多数ありました。

今子供の安全を守る為に、小学生に携帯を持たせるかで論議を呼んでいます。

僕たちの子供の頃は、携帯ではなく自分で安全を守っていました。
考えれば今よりぶっそうな世の中でした。

すべてが腫れ物に触るように過敏な世の中になってきました。

傷つかなければ痛さは分からないし、風邪を引かなければウイルスに抵抗力ももてません。
今の社会、落ち込むことが悪みたいな状況です。
でも僕たちはそれらのものに抵抗力をつけなければいけないと思うのです。

落語「愛宕山」

僕は志ん朝のが大好きです。

一八は京都祇園で働く幇間(たいこもち)。
春先のこと、京都の旦那が「気候もいいので野駆け(ピクニック)をしよやないか」と発案したので、芸者や舞妓、お茶屋の女将らとともに愛宕山へ登ることになりました。
愛宕山は京都でも一番高い山。
息も絶え絶え一八は愛宕山に登りました。

そこには願を掛けて崖の上から谷底の的に投げ込む遊び「かわらけ投げ」がありました。
若旦那、最初はかわらけを投げていましたが、
「遊びはこういうものだ!」とかわらけの変わりに小判を的に向かって投げはじめました。
一八「若旦那!そんなもったいないこと!!」
若旦那「何を!お前たちと遊んでいる方がよっぽどもったいない」
谷に向かって小判を20枚投げました。
一八「あの谷底の小判は・・誰のものですか?」
若旦那「拾った奴のものだ」
一八、何を思ったか傘を借りて谷底に舞い降りる。そしてすべての小判を拾いました。
一八「若旦那・・小判全部拾いました〜!」
若旦那「全部お前のものだ〜、でもどうやって上がる?狼がでえるぞ〜!」

降りることは頭にあった一八、上ることはは考えていませんでした・・。
谷底にある大きな竹の先に、着物を裂いて作ったロープを投げ、その先端にくくり付け、その竹をしならせる。ここが落語の聞き所です。
弓を引くようにしならせて、その反動で・・と・とと・・と頂上へ・・。

若旦那「いや一八!見事だ!今後お前をずっとひいきにするぞ。ところで小判は?」
一八「あ〜忘れた・・」


お後がよろしいようで。



2009年02月17日Comments(0)TrackBack(0)昭和 | 落語

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